きづがわ瓦版

ことのはぐさ

2011.12.12 弁護士 小林保夫| ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリンー惨事便乗型資本主義の正体を暴くー」(原題「THE SHOCK DOCTRINE THE RISE OF DISASTER CAPITALISM」)(上・下)を読む


 1 本書は、発売後すぐ、絶賛する反響が世界的に広がり、ベストセラーになったという。 新自由主義・シカゴ学派の経済思想・政治思想とその具体化としての全世界的な謀略の展開ー惨事便乗型資本主義に対する実証に基づく告発が、世界的に大きな 関心と支持を集めていることは、正義と良心の健在を示して私たちを勇気づける。
本書については、すでに三浦一夫氏が「しんぶん赤旗」に的確な書評を書いており、いまさらに私が気の抜けた二番煎じをすることもない。
 私は、私が、とりわけショックを受けたいくつかの事例とその後の展開をとりあげて感想を述べたい。
 以下、地の文章の多くも本書からの引用である。

 2 「ショック・ドクトリン」・「惨事便乗型資本主義」とは

 それでも著者が本書に込めたメッセージを理解するために、まずは著者の使用した用語や解明を行った事例について一般的な紹介をすることにしたい。
 著者は、災害、政変、内乱、戦争などの「破滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような 襲撃的行為」を惨事便乗型資本主義と呼ぶ。換言すれば、「深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、『改革』を一気に定着させてしまおうという戦略」である。
 ミルトン・フリードマンは、「現実の、あるいはそう受け取められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんなアイデアがあるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち現存の政策に代わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可欠になるまで、それを維持し、生かしておくことである。」という。あるいは、意表を突いた経済的転換をスピーディかつ広範囲に敢行すれば人々にも「変化 への適応」という心理的反応が生じるだろうと予想した。苦痛に満ちたこの戦術をフリードマンは、経済的「ショック治療」と名付けた。本書の著者は、これを 「ショック・ドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策であると規定する。
 そして、本書において検証されたフリードマン・シカゴ学派のこのような理論・政策は、自由主義経済システムが最終的には経済秩序の安定化をもたらすなどというのは単なる口実に過ぎず、結局、「惨事」(国家・社会運営の困難や民衆の不幸)に便乗して、各国の支配階級、多国籍企業の利益を図ることを合理化する目的に出たもの、あるいはそのような役割をになうもの以外の何者でもないと理解される。
 そして、このような観点で検証すれば、世界には、不幸にもいまだこのような「火事場泥棒」的な事態が至るところで繰り返されていることに驚くばかりである。
 しかし、今や、チリほかの南米諸国におけるアメリカ政府(CIA)、IMF(国際通貨基金)、多国籍企業を含む資本の実験がすべて失敗に終わり、あるいは克服されているだけでなく、民衆の利益に添う社会変革が進められている事実は私たちを勇気づけるものである。

 3 チリほか南米諸国におけるショック・ドクトリンの推進

 1973年当時、チリ・アジェンデ政権は、民主主義を通して産業の国有化など社会主義への道を模索しており、資本主義とは異なる経済モデルの転換は、国民の間に支持を広げていた。
 しかし、この試みは、チリに大きな利権を持つ多国籍企業を脅かすものであった。
 アメリカのニクソン政権・CIAは、アジェンデ政権の転覆を図る策動を進め、ついに軍部を掌握していたピノチェトと図って暴力的な軍事クーデターに出、アジェンデ大統領を殺害し、あわせて経済体制の転換を推し進めることとした。
軍事クーデターと独裁体制のもとでの大規模な弾圧がもたらした大混乱に際し、フリードマンらのシカゴ学派は、これを絶好のチャンスととらえ、ピノチェトに対して徹底的な自由市場経済体制を敷くことを提言した。
 多くの分野での国営企業の民営化、貿易の自由化、価額統制の撤廃、財政支出の削減など、同学派の年来の提言が具体化された。
  しかし、1年半にわたるこのような実験は、食料品などの天井知らずの高騰、失業率の記録的な上昇、飢餓の蔓延などさんざんな結果をもたらした。
 「シカゴ学派の最初の実験は大失敗に終わった」のである。
 ところが、これらの政策の立案・遂行にかかわったシカゴ学派の「シカゴ・ボーイズ」は、なんら懲りることなく、悪いのは自分たちの理論ではなく、適用の仕方が不徹底だったからであり、もっと財政支出の削減と民営化を進めなければならないと居直った。
 このような実態にもかかわらず、今なお自由市場経済の信奉者たちは、チリにおける実験をフリードマン主義が有効であることの証であると祭り上げている。
 フリードマンらは、懲りず、引き続き、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンなどアメリカの支援を受けた軍事政権のもとでの南米諸国においてその理論の実験を試みたのである。
 いずれも軍事政権下の国々であるのは、大規模な暴力の行使により、人々を恐怖に陥れ、障害を排除するシステムとしての軍事政権による弾圧体制がなければ、ショック・ドクトリンによる新自由主義経済政策の遂行は、民衆の抵抗・暴動を引き起こすことが必至だからである。
 しかし、シカゴ学派の実験は、最終的にも失敗に終わったのである。
 本書は、これらの南米諸国政府とその民衆のその後の対応について、「今日、ラテンアメリカでは、かつて暴力的に阻止された社会変革プロジェクトが復活しつつある。再浮上しているのは、主要な経済部門の国有化や土地改革、教育への大規模な投資、識字率向上、医療の拡充など、すでになじみの政策ばかりで、そこには何も革命的なアイデアはない。しかし平等な社会を目指す政府を作るという正々堂々とした構想において、これらが1975年にフリードマンがピノチェト に向けて発した言葉-『私が思うに、個人の金を使って善政を行なう、といった考えがそもそも大きな過ちなのです』-へのアンチテーゼであることには間違いない。」として、強い支持と期待を表明する。

 4 イギリス、ボリビア、アルゼンチン、ポーランド、スリランカ、南アフリカにおけるシカゴ学派の策動

 イギリスは、複数多党制の民主主義国家であり、またアメリカとは異なって産業の国有化の経験や福祉国家としての歴史的 伝統を有する国であるから、徹底的な民営化、貿易の自由化、国家財政支出の削減などの政策を基本的な柱とする新自由主義経済体制とは相容れないと考えられ ている。
 ところが、サッチャー英首相(1979年就任)は、友人のシカゴ学派の「守護聖人」とも言うべきフリードリッヒ・ハイエクからチリをモデルにしてイギリス 経済をケインズ主義から転換するように促され、みずからも「チリ経済の驚異的な成功」について熟知しており、それは、「われわれが多くの教訓を学ぶことの できる経済改革の成功例」であると述べている。
 しかし、サッチャーは、ハイエクの提案するような急進的あるいは国民に不人気な政策を採用して選挙に負けることは出来なかった。
 公営住宅の民間への売却という程度の政策にとどまり、炭鉱労組との対決にも失敗し、支持率も低迷して次回選挙での勝利は期待できず、一期限りにとどまりそ うなサッチャーにとって、彼女の考え方を改めさせ、コーポラティズム改革の命運を変える事件が起きた。フォークランド紛争である。
 著者は、この紛争が、自由市場プロジェクトに大きな影響を与えた。西側民主主義国に初めて急進的な資本主義改革プログラムを導入するのに必要な大義名分を サッチャーに与えたという。サッチャーは、この戦争にみずからの政治生命を賭けてたたかい、めざましい成功を収めた。そしてこの戦争は、翌年の選挙で大勝利に道を開いたという。
 勝利したサッチャーは、炭鉱労組を「内なる敵」と位置づけて労組のストライキに大々的な弾圧を加え、数千に及ぶ多数の負傷者を出したが、これに勝利した。
 サッチャーは、フォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。国営企業の民営化・株式の売却、教育の改革などである。
 フォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利は、急進的な政策の遂行のためのショック=惨事となったのである。
 しかし、サッチャーリズムがその後短い命運に終わったことは今では明白である。
 またポーランドにおいても、シカゴ学派のジェフリー・サックス(当時34歳)は、選挙で勝利した「連帯」の経済顧問として、前政権の債務の処理、深刻化する経済危機に際して、価額統制の撤廃、政府補助金の削減に加えて、鉱山・造船所・工場などの国営企業全ての民間部門への売却を内容とする「サックスプラン」を提起した。
 「連帯」の指導者の多くは、これに危惧を抱き賛同しなかった。しかし、サックスは、このショック療法によって、価額が上昇し、「一次的な混乱」は生じるだろうとしつつも、「いずれ価額は安定し、人々は落ち着きを取り戻すだろう。」と予測した。
 急激な経済の悪化のなかで、「連帯」のポーランド政府は、「ショック療法による治療ーしかもきわめて過激なーを受けることになった。『国営企業の民営化、 証券取引所と資本市場の創設、交換可能な通貨、重工業から消費財生産への移行』および『財政支出の削減』を可能な限り迅速に、かつすべてを同時に行う。」 ことを受け入れさせられた。一方サックスの助けによりポーランドは、IMFと交渉して、一定額の債務弁済と10億ドルの通貨安定資金を確保できたが、その すべてにーとくにIMFの資金ーには「連帯」がショック療法に従うという厳格な条件がつけれられていた。
その後このような条件に対する国民の不満、抵抗が強まり、その履行は進まず、右傾化の偏向を生ずるなどしたが、労働者は、「社会主義に反対するのではなくその実現を目指し、やがては職場や国家そのものを民主的に運営する力を獲得するために闘うことを誓った。」。「連帯」は敗北し、民衆の支持を失った。
 ボリビア、アルゼンチン、スリランカ、南アフリカなどにおいても、それぞれに天災、政変などに際して経済的ショック療法が採用され、新自由主義に基づく施 策が行われ、民衆は多大の災厄を余儀なくされたが、現在では、それぞれに新自由主義の経済政策を受け入れず、新しい道を模索していることが報告されてい る。

 5 中国、ロシアにおける社会主義の運命ーフリードマン・シカゴ学派の跳梁

 本書のなかで、私が、最も関心を持って読み、そしてまさにショックを受けたのは、かつて社会主義を名乗った国ロシア、今市場経済を通じての社会主義を目指すという中国と新自由主義経済、フリードマン・シカゴ学派との関わりである。

 (1)中国

 1980年、鄧小平は、ミルトン・フリードマンを中国に招待し、トップ官僚や大学教授、党の経済学者など数百人を前に 市場原理主義理論についての講演を行わせた。フリードマンは、これを振り返って「聴衆は全部招待客で、招待状を見せなければ会場に入れなかった。」と言ったという。
 1980年代、鄧小平主席の率いる中国政府は、労働者の自主的な運動が共産党の一党支配を覆したポーランドの二の舞になるまいと躍起になっていた。しかし、それは、共産主義国家の基礎を形成する国営工場や農業共同体をなんとしても守りたいとという意図からくるものではなかった。それどころか、鄧小平は、 企業主体の経済への転換に熱心に取り組んでいた。
 フリードマンは、規制のない商活動の自由を重視し、政治的自由は付随的なもの、あるいは不必要なものとさえみなしていたが、こうした「自由」の定義は、中国共産党指導部で形成されつつあった考え方とうまく合致した。すなわち、経済を開放して私的所有と大量消費を促す一方で、権力支配は維持し続けるという考え方である。そうすれば、国家の資産が売却されるにあたって党幹部とその親族がもっとも有利な取引をし、一番乗りで最大の利益を手にできるという筋書き だ。そのために中国政府は、ピノチエトに近いやり方、すなわち、自由市場経済と冷酷な弾圧による独裁的政治支配の組み合わせを採用した。
 1983年、鄧小平は、市場を外国資本に開放し、労働者保護を削減したのに伴い、40万人強の人民武装警察の創設を命じる。
 鄧小平の改革の多くは成功し、人々の支持を受けた。しかし、80年代後半になると、国民、とりわけ都市労働者にはまったく不人気な政策を導入し始める。価額規制や雇用保障の撤廃によって物価は急騰、失業が増大し、勝ち組と負け組との間の格差が拡大した。
 1988年9月、再びフリードマンは、中国政府に招待され、中国共産党総書記趙紫陽、のち国家主席となる江沢民と会談した。フリードマンは、江沢民に、かつてピノチエトに伝えたのと同じメッセージ「圧力に屈するな、動揺するな」と励ました。フリードマンは、「私は、民営化と自由市場、そして自由化を一気に 行うことの重要性を強調した。」と振り返った。そして「ショック療法」をもっと行うことが必要だと強調したという。
 1989年4月、天安門事件が発生し、中国政府は、これに対して戒厳令を布告し、全国にわたって、徹底的な弾圧を行った。「逮捕された者の大半、そして処刑された者は事実上すべて労働者だった。国民を恐怖に陥れるという明らかな目的のもと、逮捕者を組織的に虐待し拷問にかけることが周知の政策となった」と のモーリス・マイスナーが引用される。
 天安門事件の全国的な大弾圧のあと、鄧小平は、この事件とこれへの対処について「ひとことで言うなら、今回のことは試験であり、われわれはそれに合格したのです。」、「不幸な事件ではあったが、これによってわれわれは改革及び開放政策をより着実に、より良く、より速いスピードで推進できるだろう。(中略) われわれはけっして間違っていなかったのです。(経済改革の)4つの基本原則には何の問題はない。足りないものがあるとすれば、それはこれらの原則が十分に実施されていないことです。」と述べたという。
 流血の事件の直後から3年間に中国は外国資本に市場を開放し、国内各地に経済特区を設置した。鄧小平は、これらの新しい政策を発表するにあたって、国民に、こう警告したー「必要であれば、いかなる混乱でもその兆候があり次第、あらゆる可能な手段を使ってそれを排除する。戒厳令、あるいはそれより苛酷な措置が導入される可能性もある。」
中国を世界の”搾取工場”-すなわち地球上のほとんどすべての多国籍企業にとって、下請工場を建設するのに適した場所へと変貌させたのは、まさこの改革の波によるものであった。
 2006年の調査によれば、中国の億万長者の90%が共産党幹部の子弟だという。
 中国の政治・経済システムは、企業エリートと政治エリートが相互に乗り入れ、両者が力を合わせて組織化された労働者を排除するという構図である。
 「今日の市場社会が作られたのは一連の自然発生的な出来事の結果ではなく国家による暴力の結果なのだ。」(汪暉)という。

 (2)ロシア

 1991年、ゴルバチョフソ連大統領は、新生ソ連の改革の英雄として国際社会に迎えられるはずであった。ところが、彼が臨んだG7(先進国首脳会議)において、シカゴ学派の経済プログラムか、正真正銘の民主主義革命かの選択を迫られた。
 しかし、1ヶ月後、ロシア大統領ボリス・エリツィンは、戦車で国会を脅迫したソ連共産党の守旧派に対抗したことによって、共産主義者のクーデターから民主主義を救うとという功績によって、少なくともしばらくの間は、国民の英雄となった。
 しかし、エリツィンは、ソ連を崩壊させ、ゴルバチョフを退陣に追いやった。
 エリツィンがソ連の崩壊を宣言した日、シカゴ学派のエコノミスト、ジェフリー・サックスは、経済顧問として招かれ、クレムリン宮殿の1室にいた。
 ロシアの資本主義への転換策は、その2年前に天安門での抗議運動に火をつけた中国政府の腐敗した政策と共通する部分が多かった。
 ハイエク、フリードマンらのシカゴ学派の指導と支援を受けたエリツィンらの経済的ショック・プログラムには価額統制の廃止のほか、貿易自由化や国有企業22万5000社を立て続けに民営化する計画の第1段階も含まれていた。
 その後エリツィンは、クーデターを起こして全権力を掌握し、議会を解散し、憲法を停止し、独裁政治を打ち立てた。
 そして、企業の民営化の推進のなかで、石油、ニッケル、兵器などの代表的な国営企業が二束三文で売却された。そして、本書は言う「言語道断なのは、ロシアの国家資産が本来の価値の何分の1という値段で競売にかけられたことだけではない。それらはまさにコーポラティズム流に、公的資金で購入されたのだ。」。 エリツィン政権と民間銀行が結託し、国営銀行や国庫に入るはずだった巨額の公的資金を購入資金に充てたのである。エリツィンの後をおそったのはウラジミール・プーチンであった。エリツィンは、プーチンに、ピノチエト流に刑事免責特権を要求し、その結果プーチンの大統領としての初仕事は、汚職であれ、エリツィン政権下で起きた民主化運動活動家の殺害であれ、エリツィンが刑事訴追を受けないことを保証する大統領令に署名することだった。

 6 イラクー「テロとのたたかい」を口実にするブッシュ政権と戦争企業とイラク国家・社会の破壊

 戦争は、最悪の惨事であり、この戦争を食い物にして利益を得ようとする国家・企業・個人などの姿は、まさに醜悪である。しかし、さらに国土や資源の獲得・支配や利益のために、口実を設けてあえて戦争を起こし、抵抗したり、邪魔をする勢力や無辜の人々を殺戮するのは、許容しがたい犯罪行為である。
 イラクに対する侵略は、まさにその典型であった。
 アメリカのブッシュ政権と戦争企業は、9・11事件によるアメリカ国民をはじめとする世界的な「ショック」を契機に、「テロとのたたかい」をうたい、実際には、イラクに核兵器などの「大量破壊兵器」が存在しないことをあらかじめ完全に把握していながら、「大量破壊兵器」が存するという白々しい口実を設けて、同盟諸国政府を巻き込み、イラクに侵略戦争を仕掛け、イラクの民衆に数十万にも及ぶ多大の犠牲者を生じ、イラクの国や社会をおそらく何十年にもわたっ て取り返しのつかないほどに破壊し、のみならずみずからのアメリカ軍の兵士・国民にも多大の犠牲を強いる結果を引き起こした。
 ところが、ブッシュ自体や、同政権の幹部(ネオコン一派)が関わる多くの企業は、アメリカ国民の税金を無尽蔵の財源として、莫大な利益をむさぼったのである。
 本書は、ブッシュ政権や戦争に便乗して利益をむさぼった戦争企業を告発する。
 アメリカ等のイラク侵攻後、イラク国民の民主主義への期待に対して、ブッシュ政権は、選挙を中止し、民主主義を暴力で抑え込み、反対する者を片っ端から連行して拷問を与えることによって経済ショック療法を断行するという原点に立ち戻った。
 もしイラク国民が次の政府を自由に選ぶことができ、その政府が実質的な権力を握れば、米政府はこの戦争の大きな目的のうちの二つーイラクに自由に米軍基地を展開すること、そしてイラクをアメリカ多国籍企業のために全面的に開放することーを達成できなくなるからである。
 イラクでは、アメリカ軍やその傭兵による「テロリスト」を口実とする無差別の拉致・暴行・拷問が日常化し、「集団虐殺」をはるかに上回る忌まわしい事態が起きた。
 イラクの産業がことごとく崩壊する一方、国内でブームとなったビジネスのひとつが「誘拐」であった。また「拷問」も新たな成長産業になった。警察が被拘束 者の家族に拷問をやめる引き換えに数千ドルを要求するケースが数え切れないほどに上ったという。本書は、その多数の具体的な事例を紹介する。
 イラクの政府収入の95%を石油に依存し、また将来の国家の再建を保障する唯一の資源は石油産業であるが、2006年にアメリカの超党派の諮問機関 「イラク研究グループ」の報告書は、アメリカが「イラク指導者を支援して国営石油産業を営利事業として再組織し、」、さらに「国際社会や国際エネルギー企業に呼びかけて、イラク石油部門への投資を奨励する。」べきだと提言した。
 この提言に基づいてブッシュ政権がイラクの政府に手を貸してまとめた「イラク新石油法案」は、シェル石油やBPといった国際石油メジャーが30年の長期契約のもとで、数百億、いや数千億ドルにも及ぶイラクの石油収益のかなりの部分を保持することが可能なものであり、政府収入の95%石油に依存する国を恒久 的貧困に縛り付ける宣告にも等しいものだった。
 石油メジャー側は、利益の大部分をイラクから取り上げることを、安全上のリスクを負っていることを理由に正当化した。言い換えれば、惨事そのものがこれほど大胆な法案提出を可能にしたのである。
 2007年2月、イラク政権が最終的に採用した法律は、予想された以上にひどい内容だった。なかでも厚顔無恥と言うべきなのは、将来の石油契約に関してイラクの国会議員はなんら発言権を持たないという規定である。
 崩壊の危機にある国から将来の富まで乗っ取ろうというのは、惨事便乗型資本主義のなかでも破廉恥の極みとしか言いようがない。
 イラクの混迷で最大の利益を得たのはハリバートンだった。
 ブッシュ政権の戦争の民営化と、その庇護のもとで、軍需物資の調達だけでなく、傭兵や新兵の採用といったもともと国の業務まで、あらゆる分野にわたって、これをビジネスとして事業を拡大し、莫大な利益を挙げた。その原資は、国民の税金であり、それは無尽蔵であった。
 私たちは、イラクにおけるアメリカ軍や軍事会社の傭兵による殺戮・破壊の悲惨な現象については、すでに多くの情報を得ている。しかし、このような現象をも たらしたアメリカ・ブッシュ政権や戦争企業、多国籍企業の意図やその遂行については、必ずしも十分な体系的な理解を得ることができていなかった。本書は、 この点について、極めて多くの示唆を与えてくれるものである。

 

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