○平和教育と「自虐」というレッテル
私は子どもの頃から、平和教育や終戦の日の戦争ドキュメンタリーに触れてきた。多くは空襲や家族の戦死といった、被害に焦点を当てたものだった。「戦争は悲惨だから繰り返してはならない」という教訓は非常に重要である。しかし、戦争を被害の側面からのみ捉えることには限界がある。加害の側面を学ぶこともまた、歴史から学ぶうえで欠かせないはずだ。
ところが、こうした加害の歴史教育に対して、「自虐的だ」「日本人を貶める行為だ」として否定する声が存在する。いわゆる「自虐史観」と呼ばれるレッテル貼りである。なぜこのような見方が、ある程度の支持を得ているのだろうか。
○リベラル批判と「物語」の喪失
この背景には、近年の「リベラルな価値観」に対する反発感情があると考えられる。人権や多様性を重視する姿勢は現代社会において不可欠だが、その一方で「何が正しく、何が許容されるのか」が一律に決められていくことに、息苦しさを覚える人も多い。たとえば、有名人がマイノリティに関する不適切な発言をして批判を受けるたびに、「多様性の押しつけ」「言論の自由が奪われている」と感じる人々もいる。そうした中で、リベラルな価値観に対する不信感が広がっている。
もう一つの要因は、社会における「大きな物語」の喪失である。かつては、神話や伝統、経済成長への期待、冷戦期のイデオロギー対立など、人々が拠って立つ明確な価値体系が存在した。しかし現代では、誰もが自分自身で「生きる意味」を見出さなければならなくなっている。
そのような不安の中で、「誇れる日本」「他国に謝る必要はない」といったメッセージが、一つの「物語」として機能し、多くの人の共感を呼んでいるのではないだろうか。こうした物語にとって、加害の歴史に向き合う教育は、不都合なものであり、「自虐」として否定されやすい構図がある。
○「自虐」と向き合いの違い
だが、本当に加害の歴史に触れることは「自虐」なのだろうか。私はそうは思わない。過去の行為に正面から向き合い、被害を受けた国の人々と対話しようとする姿勢は、むしろ自国への誠実な関心があるからこそ可能なのだ。加害を知ることは、未来に向けた責任ある選択でもある。
現在、一部の政党や言論人が「自虐史観の克服」や「日本人ファースト」を訴え、急速に支持を広げている。この動き自体が、「自虐史観」という言葉がひとつの政治的な「物語」として定着しつつあることの証左かもしれない。
○結びにかえて
私たちはいま、「歴史をどう語るか」が分断を生む時代を生きている。加害の歴史に向き合うことは、「日本人として誇りを持てないから」するのではない。むしろ、誇りある未来を築くためにこそ必要なのだ。
では、どうすれば「自虐史観」というレッテルに閉じこもるのではなく、誰もが自分のこととして歴史と向き合えるようになるのか。そのために、どのような言葉や「物語」が必要なのか。今こそ、私たちはこの問いと真剣に向き合うべきではないだろうか。